藤井風を語る真夜中

風という病に侵され…語らせたまえと願った。

今さらHEHN語り①

そろぼち、2ndアルバムの香りが漂って来た今日この頃。…という今のうちに、1stアルバム『HEHN』の楽曲を振り返っておきたいと思う。

俺は昨年のデビューも知らず、アルバム曲にも触れずに今年の5月半ばまで藤井風をきちんと認識していなかった…という、大遅刻ファンなのでホントにしょーもな!としか言いようがないが、遅れに遅れた大馬鹿なりに、HEHNアルバムを語っておかないと、気持ちがおさまらない。

あらゆるレビューが出てるだろうし、みんなの心に定着したものがあるだろうし、今さら語る余地も無いことは承知で、1stアルバムへの自分なりの思いを語ってみたい。色々勘違いやら間違いもあると思うけど、どうか遅刻した子を憐れんで、ご容赦いただきたく。

 

これ、長くなりそうだな…。何回かに分けて書いてみるね。

 

まず、全体を聴いて感じたこと。

HEHNに収録されている楽曲は11曲。それを、歌詞の、ある特徴によって分類してみると。

 

Aグループ:『何なんw』『さよならべいべ』

Bグループ:『優しさ』『調子のっちゃって』『特にない』『死ぬのがいいわ』『風よ』『帰ろう』

Cグループ:『もうええわ』『キリがないから』『罪の香り』

 

これはどういう分類でありましょうや? 風民の皆さまには簡単過ぎるよね。

藤井風には特にこだわりは無いのかも知れない、しかし俺はかなり気にしてしまう(アホ)という意味において、このような分類をしてみた。

これは「一人称」の表記による分類。

Aグループは「ワシ」「わし」。

Bグループは「わたし」「あたし」。表記上は「私」も。

Cグループは 一人称無し。

 

これで分かるのは、HEHNには「僕」という人称を用いた曲は一つも無いってこと。世の中に溢れる「僕と君」という語りかけが一曲も無いアルバムなのである。

HEHNの曲には無いが、『青春病』『旅路』には「僕」「僕ら・僕たち」が用いられている。

「僕」は若さを象徴する一人称だ。若々しさが前面に出たこれらの曲が、2ndの「より若々しいアルバム」というコンセプトに相応しいのは当然。『青春病』はHEHNには入れないと判断した風は、全く正しいセンスの持ち主なんだよね。

それにしてもデビューアルバムが、「僕」という、ごく普通の一人称を使わない曲ばかりだというのは、かなり特異ではないだろうか。

風のデビューに際して「岡山弁」を強調する紹介もあったが、方言メインで書かれたHEHNの曲は3曲『何なんw』『もうええわ』『さよならベイベ』だけ。そのうち「わし(ワシ)」が使われているのは2曲。『何なんw』『さよならベイベ』の歌詞が強烈な印象を与えるから「わし」ばっかり言ってるように思う(誰も思ってないか)だけで、本人の話し言葉の印象を除けば、曲における「わし」率は高くない。

 

Bグループは数の多さも特徴的。「わたし」を用いていても、女性目線の詞とは限らない。公の場では、男も「わたし・わたくし」を使うのは当たり前。風の詞は、主人公が男性か女性かを超越したところがあり、楽曲に「男らしさ、女らしさ」を感じさせないという特徴がある。だから全体に「押し付け」やら「決め付け」が感じられない、軽やかさがあるのだ。

 

いかにも女性目線に聴こえる『特にない』でさえも、男の俺にも痛烈に刺さる。英語で書かれた部分が、執着への“もがき”だとするならば、俺にだって経験がある。今もヒリヒリと痛む情けなさを手放して、渇きなどないと言いたい、満たされてると言える自分になりたい。

『優しさ』『風よ』『帰ろう』…全ての「わたし」は性別を背負ってない。女性が聴けば女性が主人公に、俺が聴けば俺自身が主人公になる。『調子のっちゃって』は、“裸の王様”が男を思わせるのは致し方ないが、この曲は風が自身への戒めとして書いたからなのだろう。しかしその戒めは男女を問わず普遍的だ。『死ぬのがいいわ』は、俺には男女の掛け合いにも聴こえるんだよね。

 

Cグループは、主人公が誰なのか、主語が語られることの無い曲たち。誰の曲にでもなりうる、自分が主人公になれる曲。描かれた心情が、そのまま自分のものになる。

「もうええわ」という諦観も、「気づけばハタチは遠い過去 いや夢?マボロシ!」という感慨も、「罪」を拒絶する戦いも、全てが自分自身のもの。

 

HEHN独特の、年齢・性別を超えた雰囲気。この作者は人生何周目?と言いたくなる老成したような不思議感。全体のとろりとした肌合い。繭に包まれているような安らぎ。「わし」や「わたし」だからこそ、主人公の主語が無いからこそ、まったりとした空気感が生まれている。俺はそう感じる。

 

風が歌っているのだから風の心情、と聴こえるようでありながら、自分自身の心情に重なり、溶け合っていく感覚。「わたし」で歌われる曲が、どうしようもなく自分の心を癒してくれる感覚。「わし」の曲だけは藤井風自身を見る思いになる、卓越した一人称の使い方。

ひとつひとつの曲に込められた願いを生かすにはどんな詞が最善か。風はアタマではなく心で、歌詞を選び取っている気がする。メロディに呼ばれる言葉を探す…その探し方が半端なく天才。ナチュラルな言葉ばかりに聴こえるのに、一曲の世界観を見事に構築してみせる天才。

音楽的に天才なのは分かっていたけど、作詞においても天才。「本(小説)は読まない」と言うが、幼い頃から膨大な本に匹敵する日本語、英語の「歌詞」を読み込んで、血肉にしてきた人だ。そこらへんの読書家には負けてないよ。天才に天才と言うのもダサいが、ホントに、俺みたいな文系男子は惚れ惚れするしかないんだよなぁ。正直、羨ましい!

 

全体を見渡して感じたことを書いてみた。もう散々出尽くした意見かも知れない(何も知らんのです)が、初心者の感想として、どうかお許しください。

 

次から、個別の曲について感想を述べてみます…できるんか自分。

 

ここまで書いてアップして、さ、寝よと思ったら、ダチオ監督が写真投下してくれてた!

男2人がランニングシャツ着て。くっつき過ぎじゃありませんかね?と目つき悪くなるぜ、こっちは。んで『やる。』とのお言葉ですよ。ヤバヤバヤバ! もちろん9月4日のハナシっす。日産スタジアム山田健人監督がステージの監督と生配信の監督も「やる」んだね。素晴らし!

しかし何故か、風民…いや男の風ファンに対するマウンティングに見えるぞ。ぐやじい!!

寝る前に悔しいもん見ちゃって悔しい。寝られそうにない!!(落ち着け)