藤井風を語る真夜中

風という病に侵され…語らせたまえと願った。

パナスタ幻影城①

まさに幻影の城であったなと思う。たった二夜だけの幻の城。

藤井風が、山田健人が、河津知典が。彼ら天才的なリーダーが全力を尽くし、技と志の高い、おそらく数百人にも及ぶスタッフを率いて造り上げてみせた最高の城。

そこに招かれて、何なんこれ!!と叫んでるうちに全ては終わっていた。城も見事に消えた。

瞼の裏には美しい残映があり、耳には残響がまとわりつくというのに。夢の如き城はもう何処にもない。

それが蘇った、TV画面に、手の中の画面に。思い思いにあの城をもう一度体感できるのだ。

朝日にも夕月にも星にも叫ぶ、ありがとう!!と。

 

今夜、風っちからまたポストがあった。

『まつり』MVの公開から1周年だと。そっかぁ…本当に『まつり』の夜だったよね、1年前。そしてあの日からずーっと『まつり』の日々。

どの曲も大好きで宝物ばかりだけれど、雛壇みたいに風っちの曲を飾り付けたら、一番上の金屏風に当たるのが『まつり』かな、俺にとっては。全体に敷き詰めてある緋毛氈は『grace』。お内裏様は『何なんw』、お雛様は『ガーデン』かな、『死ぬのがいいわ』かな。あははは(どういう妄想やねん)

『まつり』は必然にして奇跡の曲。藤井風にしか生み出せない曲。何という名曲なんだろう。

これからもこの曲が世界中に広がっていく未来しか見えない。もっともっと世界にとって大切な一曲に育っていく。

この曲を与えられた地球は、少しだけ微笑んでいる。暗い顔、哀しみの目をしていたが、地球よりさらに大きな両腕に抱かれて、安堵の吐息をついてる気がする。

風っち、『まつり』をこの世界に贈ってくれたことに、心から感謝します。✨🙏🙏✨

 

この一年、『まつり』とともに我々を鼓舞し、慰め、癒してくれた風っち。

その中で最高にして最大のまつりがパナスタだった。

 

Netflixを観ての感想を書きたいんだけど、まだフワフワして半分現実、半分夢の中。ちゃんとした感想になるのか?と自分を疑いつつ。

少しずつでも書いていこうと思うけれど、その前に全体を通して言っておきたいことが。

それは、曲のアレンジについて。

 

ほとんどの曲において、風っちは同じアレンジをしない、ツアーによって、ステージによって変幻自在にアレンジを変えてくる。

昔観たマイケル・ジャクソンの「THIS IS IT」というドキュメンタリー映画の中で、マイケルが「曲はオリジナルのままで。昔の通りにするのがファンの望み。最初に聴いた音と同じってことがファンには大事なんだ」みたいに言うシーンがあった。(おぼろな記憶だけど)

それを聞いて俺はなるほどと思った。ひとつの曲にはどうしようもなく“思い出”が貼り付いている。聴いた時の自分、一緒に聴いた友人、その時の環境や社会情勢までが、ひとつの曲に染み付いている。

だからこそ、アレンジが変わったりすると違和感を抱く。あれ?聴いてたのと変わった? あの時のままで聴きたかったのに。

そんなファンの気持ちを大切にしたいというマイケルの思いに納得し、その言葉は胸に残っていた。

 

風っちの曲に対しても、オリジナルのままで聴きたいと思うファンはきっといるだろう。

だけど新しいアレンジを聴くたびに、俺はそれさえも「手放してええんやで」という、風っちのメッセージを感じるのだ。

最初に聴いた音源のまま、エンドレスで聴き続けるうちに生まれる、その曲への執着。好きであればあるほど、自分の心と離れがたく結びつく曲たち。

曲への愛着、思い込み、こうあるものだという自分なりの囲い込み。そうしたものを叩き割って、新しい姿にして、こんなんもあるよと教えてくれる風っち。

ほら、こんなアレンジも面白いやろう、楽しいやろう。音楽には無限の可能性があるんやで。もっともっと自由でええんやで。

 

俺らの四角四面な何かを、凝り固まった何かを、いつも柔らかくしようとしてくれる。

みんな可愛いな、もっと楽になって、自由になって。自分がそのままでperfectだってことを知ってな。

大切なメッセージを、よりわかりやすく伝えてくれるために、風っち自身も風っちの音楽もアップデートを重ねる。

まさにアップデートの人。我々の心をもアップデートしてくれるために全魂を捧げて。

あんなに高く高く昇りながらも、みんなを見てる眼差しには慈愛しかなかった。

 

そんな愛に満ちたパナスタライブ。

また最初からじっくり観ながら、振り返ってみたいと思う。

巨大な花のようだった幻影城を胸の内に描きながら。