藤井風を語る真夜中

風という病に侵され…語らせたまえと願った。

『四月になれば彼女は』

映画公開の初日に行くなんて初めての経験。しかも初日舞台挨拶の中継付きで。

 

映画そのものの感想はまだ煮えてないのだが、この作品を観た経験が何だったのか、新鮮なうちに書いておきたい。

若干のネタバレ的な要素は入るかと思うので、一切何も知りたくない🙅‍♂️という方はここで閉じてくださいな。映画と原作の比較にも触れるので、未見、未読の方もUターンで、なにとぞ。

書き終わってみると無駄に長い。しかも単なる散文になってしまった。先に謝っておきます。🙇‍♂️

 

⚠️以下、ネタバレ(っぽいもの)アリ⚠️

 

かなり濃密に喰らいついて映画を観て、見終わったと思ったら『満ちてゆく』が流れ始め。その瞬間の「お、おおぅ、キタ、キタよ!」という空気の騒つき。マジで館内がザワッとした。僕も他の観客も、そうだそうだエンディングに流れるんだ、と改めて緊張したような。笑

座席をもぞもぞさせて、歌を聴くんだというモードに入る。

佐藤健さんが舞台挨拶でも言ったけれど、『満ちてゆく』が流れることでこの映画は完結…完成する、と。

決して大音量ではない、むしろ控えめな、映画の余韻に寄り添うような優しい響きで、歌声が会場を満たしていく。

この曲はラストシーンの2人をそっと励まし、包み込んでいくような曲。ひんやりとしているのに温かい。まるで春先の空気ように。

 

僕は原作を読まずに映画を観た。で、昨夜帰宅してから原作を読んだ。

うむ…別物やーーん!!😳←いい意味の驚き

 

原作者が脚本にも参加した作品が、これほど変化するとは。川村元気さん、凄いな。原作は原作として、新たな物語を再構築してみせた。

ある意味、原作も映画もやや難解で、それこそウユニ塩湖のように「これは何?」「自分は何を見ているんだ?」という掴みどころの無さを内包している。それは「恋とは?愛とは?」という問いに直結する“わかりにくさ”なのだけど。

 

原作のふわりとしたニュアンスを、映画として可視化してみせる手法が素晴らしかった。

クライマックスからラストへ至るストーリーは、原作以上の感銘をもたらす。こんなに全然違ってていいの?という驚きは、原作者が自ら変更したんだという感動に取って代わる。

 

細かな相違点はたくさんあり、主人公の2人“藤代”と“弥生”の出会い方からして違う。大学時代の恋人となる“春”の出身地も違う、父親が出て来るのも原作には無し。この父親がまた強烈なる人物像(竹野内豊さんお見事!)で、この人が原作のあの人の存在感と重なるのか…。おそらく父親は亡くなっていて、だからこそ春は世界を旅することが出来たのだろう、と想像する。

 

とあるシーン(男性2人が一緒に店から出て来る)を見て、アレこれは…彼はゲイってこと?と瞬間的にわかった。それまでそんな描写はなく、ただ彼は藤代に複雑な思いがあるのかもしれない?とは感じつつ。

一瞬のツーショットだけで人物の深いところまで演じてみせる役者(仲野太賀さん)に凄みを感じた。

この部分も原作を読んで納得した。しかし人物の造形はこれも別物。

 

とにかく登場人物が、名前は同じでも全く別人になっていて、いや〜映画化、実写化に、こんなやり方もあるんだと感服した。

別の物語が立ち上がっている、より映画に相応しいものとなって。

長い話を短くまとめるとか、エピソードを削るとかそんな次元じゃない。映画化するとはどういうことなのか、核を伝えるには何をどうしたらいいのか。原作からの実写化をどうすれば間違わずに出来るのか。ひとつの最適解が示されたように思う。

この映画化は正解だ。この内容にしたこと、素晴らしい挑戦であり大正解だったと、川村元気さん、山田智和監督をはじめ関係各位に心から拍手を送らせていただきたい。

 

原作ファンには異論もあるかも知れないが、ストーリーの改変によって春と弥生がより深く繋がることで、この作品の厚みが増したと感じる。

登場人物の輪郭もよりくっきりとして、文学と映像の差異、それぞれの魅力も繊細に実感させてもらえた。

 

心の動きが切なく儚い物語なのに、説明的な描写は少なく、圧倒的な風景の美しさが一番雄弁だったのも映画ならでは。

ウユニ塩湖の、世界がひとつに溶け合う中で、自分の存在があまりに頼りなくなる感覚。しかし実在してるんだぞー、ここに立ってるんだぞーと叫びたくなるような場のちから。

世界はこんなに互いを映し合っている。自分は?自分は誰と映し合うのか。天も地もなく溶け合って、分かち難くひとつになりたい。そんな願いを叶えてくれる場所なのかも知れない。

 

プラハの、現在と過去がひとつになった時計。過去を表す春と現在を表す弥生。どちらもそこにある。どちらも生きている。進んでいく現在の中にも常に過去はある。

確かに藤代を愛していたのに、手を離してしまった春。今、手が離れようとしてもがいている弥生。ふたつの手をどちらも失いそうな藤代。

過去と現在が交錯する時計の真ん中で、男は常に不安な顔をしている。どっちつかずの曖昧な顔。僕には、あの時計台に藤代の顔が張り付いているように見えた。

 

アイスランドのブラックサンド・ビーチ。火山岩で出来た黒い砂浜。火山活動が作り上げた絶景。海も冷たく荒々しく、人間を拒絶するような場所。“死”だけが待っているような場所。世界の北の果ては、人を拒みながら人を誘い込むような壮絶な場所だった。

 

ひとつに溶け合い映し合うウユニ塩湖。

時を重ねて互いに繋がり合うプラハの時計台。

黒い無情の中に安らぎがあるアイスランドの海岸。

生きて、重ねて、死んでゆく、この世界。

 

春は旅を終えて、藤代が誰かを愛し、愛されることを願って亡くなっていく。

 

春も弥生も藤代も不器用な魂を抱えている。いや登場人物全てがそうだ。これを「コミュ障の集まりかよ」と断ずる人には無縁な映画だ。

愛することにも愛されることにも不安があり、自信が持てず、自分も相手も満たされないまま、悔し涙を流したことのある人には分かるはずだ。

 

原作には映画『卒業』の話が出てくる。映画と共に、サイモン&ガーファンクルのサントラも大ヒットして、その中に「四月になれば彼女は」という曲がある。

四月、水ぬるむ季節に彼女はやってくる。五月には僕の腕で安らぐ。六月、彼女は変わっていき、七月、彼女は飛び立つ。そして八月にはきっと彼女は死んでしまうだろう。九月になって思い出す。愛はそのたび新しくても、やがて移ろい老いていくことを。

非常に短い曲。“彼女”とは実際の女性ではなく、愛そのもののことだと思われる。

愛の移ろいやすさ、儚さを歌っている。

 

映画『卒業』は、ラストシーンが有名だ。教会での結婚式。愛する女性が他の男と式を挙げようとしている。そこに主人公の男が教会のガラス窓を叩いて乱入し、花嫁を奪いに来る。

花嫁も彼の思いに応えて、2人は飛び出して行く。あてもないけれど、バスに乗り込み遠くへと揺られて行く。

次の瞬間、僕らが目撃するのは、まさに「手にした瞬間に 無くなる喜び」の姿だ。

花嫁を奪って駆け落ちしたという高揚した瞬間は去り、もう不安が2人を包んでいる。これからどうなるの、どうするの?という現実が黒雲になる。

そこで終わる映画。

この映画には僕は承服できない部分があって、それは主人公が愛する女性の母親と性的関係を結んだ男、だという点。そんな!多分中学生くらいの時に見て、あり得ない〜!とジタバタした思い出が。いやはや、彼女は母親と寝た男をずっと愛せるんかい? 当時のアメリカの空気感を描いてるんだろうけど、到底理解できない話として残っている。その分印象も深い。

ま、そんなことはともかく。

 

藤代と弥生はやり直せるのだろうか。

もし春が生きていて藤代の前に現れたなら…彼はどちらを選ぶのか。選べるのか。

 

そんなもやもやした心に、藤井風の声がそっと響いてくる。

「何もないけれど全て差し出すよ」そう、全てを差し出して愛を与えるんだ。愛するんだ。しかし手に入れたとは思わない。人の心を自分のものにすることは出来ない。それはその人のもの。

だから、手にしたと傲慢になるのではなく、永遠に手に出来ないからこそ、大切に思い続ける。自分のものだ!と囲い込んでは安心して放置するような愛し方ではなく、手を放して軽くなって、それでも愛でていくんだ、ずっとずっと。

まず自分の心を満たそう。満たしたら溢れ出すから、それを相手に全部差し出そう。与えるほどに満たされてゆく、そんな生を生きよう。

 

そう歌って、この物語は完結する。この主題歌あればこそ、今の時代に誇るべき作品になったと僕は思う。

 

佐藤健さん、長澤まさみさんの実力通りの演技、表現力。森七菜さんの透明感。僕は森さんをほとんど知らなかったけれど、この作品で実に素晴らしい演技者だと感動した。他の出演者の方々も適任揃い、さすがに川村元気+山田智和にハズレなし。

 

とりとめもなく長文になってしまった。お目汚し許されたし。

風っちが導いてくれた映画、大切に温めて愛でたい『四月になれば彼女は』である。