藤井風を語る真夜中

風という病に侵され…語らせたまえと願った。

20歳の写真

今日また新しい写真がインスタに。

ストーリーズに、ミッチャム付箋のイラストを描いた作家さんへの感謝を込めたアップをして、そこからミッチャムで撮影した写真を連想したのかな。

 

4年前、20歳の風っちが、ミッチャムのカウンター内側に立ってる。1枚は正面、もう1枚は横向きで手洗いなんかしてる。

何とも言えない表情。誰が、どんな意味・意図で撮った写真なんだろう。こんな表情を見せられる相手は誰だったのか。

 

20歳の冬。成人式の後(少し髪が伸びた頃)だろうか。YouTubeに動画投稿をしつつ、ライブ活動も始めていた。ミッチャムの手伝いもしながら。

半年前の夏に初めてYouTube上で『弾き語り』を披露し(それまでは演奏のみ)、ワシ歌う人になるで!と世界に宣言をして。新たな段階に走り出した2017年が終わり、2018年を迎えた。

 

先が見えて来たようで、まだ何も掴めていない。自分のちからに自信はあるけど、それが世の中に受け入れられるかは分からない。だけど湧き上がる熱は誰にも負けない。

強い強い思いの自分、時に弱気になる自分、頭を振り上げる自分、下を向いて膝を抱える自分…すべてが20歳のカラダに宿ってる。

不安と矜持とを一緒に抱いて、ミッチャムの厨房に立っていた風っち。もしかして、ご両親とバチバチしていた時期だったかも知れない。

この年の夏にずっずさんと出会い、ご両親も東京へ出ることを許してくださり、上京の時を迎える、ちょうど1年前の冬。

 

ずっずさんと巡り会う前。音楽仲間や兄上と一緒の時はあれど、基本的にソロのアーティストとして進んでいた藤井風。

その孤独や寄る辺無さ、道が見えない不安を写し撮っている1枚。けれども、中身がしっかりとある人間の顔をしているんだよ、風っちという人は。ハッキリと前を見据えている眼差し。

薄っぺらいとか空っぽとか、20歳の頃ありがちだった “中身の無さ” とは無縁の顔。俺は自分の20歳が恥ずかしい。(比べるな!)

 

風っちを例えるならば、中身がパンパンに詰まった、たい焼き。笑

美味しい餡子が溢れそう。そのパンパンの餡子を持て余して、逆に不安な表情になってるんだ。

でも餡子には絶対の自信あり、『カムカムエヴリバディ』の和菓子屋・橘(たちばな)の餡子みたいにさ。(舞台が岡山だったので見始めた。視聴継続中・笑)

最高の餡子を作れる技術もセンスも情熱も、誰にも負けないと自負しながら、まだ店を出す見通しもつかない。そんな日々。

 

藤井風だって、こうだったんだよな。まるでシンデレラ・ストーリーみたいな紅白での大活躍だって、それまで、もがき悩み闘い、何より忍耐の日々があったから。シンデレラと同様に。(風っちは、女性向けかと思われるシンデレラの映画も、主人公に共感してたね)

風っちにとっての魔法使いは、ずっずさんだった。ふたりの協働(他に言い方ないのか)で花開いた、藤井風という大輪の花。20歳の風っちは知る由もなかった、このストーリー。

 

今、成人式も出来たり出来なかったりの新成人。苦しいことが多い、ホントに何という毎日なんだろう。そんな日々を送る我々を、1枚の写真が励ましてくれる。

一緒にもがいて、道を探して、歩き続けてくれる人がいる。

どこまで行っても、まだまだだって。まだまだ行くよ、と。みんなと一緒やで、と。

ひとり高みに昇ることを良しとしない人が、俺らの道標になってくれてる。20歳の写真を通して。

 

風っちの優しさに殺られた、またしても。笑

 

 

今日はMISIAさんの『星空のラジオ』の感想を書こうと思っていたけれど、写真のインパクトが大きくて。ラジオについては、またね。