藤井風を語る真夜中

風という病に侵され…語らせたまえと願った。

朝から暴風🌀

おはよ…真夜中ブログのはずが…目が覚めたらまたまたトンデモな話が!😳

仕事中なんだけど(自営業の特権)ちょっと気になるので、書いてみる。

 

そっかぁ、そっかぁ。

もう一度、お正月に風っちが『藤井微風』と書いた意味を噛み締めたい。今年がどんな暴風や爆風の吹き荒れる年になるか、彼(ら)にはよーく分かっていたはず。なのに、いや、だからこそと言うべきか、あえて(あえては漢字だと『敢えて』となる。見たことある字だよね…笑)『微風』だよ、微風を心に忘れぬよう…と伝えてくれたんだ。

 

みんなもよく分かっていると思うけど、国がやることには必ず反対派という存在がある。特にオリンピックには。開催反対とデモに参加した人、とにかく今の政府が推進することは何であれ許さない人、様々な政治的関わりに対して拒否感を持つ人。

 

このブログで政治的な話をするつもりは全く無いし、自分自身の2020への感想や意見を言うつもりも全く無いが、この世界には何事であれ、推進派と反対派があり、その対立はあらゆるコトに及ぶ。その対立と我々は無関係ではいられない。

今回のような仕事となると、必ず一定の人々がSNS上で、河瀨直美監督を批判し、ひいては藤井風を批判するだろう。これを我々は目にすることになる。

藤井風への批判という “暴風” に、まだ耐性の無い我々、誰にでもアンチはいると認識していても、彼(ら)の行動が批判されることには、まだ慣れているとは言えない。

国からの表彰を受けたことさえ、素直には喜べない人もいた。藤井風は政治的なコトとは無縁でいてほしいと思うファンもいるだろう。

 

あらゆる方面からの「こいつは自分らの側か、敵側か」という、藤井風を引っ張り合うに違いないさまが、目に見えている。

例えば、今、某国で生きているアーティスト全てが為政者に協力している “敵” なのだと決めつけ、為政者にツバを吐いて立ち去る人だけが “こちら側” であると、そんな単純な見方で判定していいのだろうか。

 

ひとりひとりの人間の心は、思いは、宇宙のように大きい。いや宇宙そのものだ。その宇宙の中に地球があり、それぞれの国があり、人がいる。それら全てを包んで、それら全てを受け容れて、それら全てへの音楽を届けたいとする音楽家もいる。

 

今回、河瀨監督からのオファーを「政治的信条と相容れないので」と断ったとしたら、それこそ藤井風らしくない。政治的な立場を取らないのが風っちだと思うから。

政治的な立場なんて、ある意味ちっちゃなものだ。風っちには、そんな小ささは問題にしない、もっともっと大きな立場でいてほしいし、風っちはそういう人だと、俺は思う。

 

みんな、それぞれに政治的な立場や感覚を持っているだろう。が、藤井風を、その感覚で捉えたら、風っちを矮小化してしまう。

今現在の政治がどうあれ、風っちは自分で風を作り得る人。我々は、風っちが作る風だけを信じていればいいのだ。それは自分自身の信条や感覚より大きいものだから。

 

映画音楽を提供するなんて、凄いこと。楽しみなこと。ファンとしては喜びしかない。

ただ、必ず批判や嘆きが付き纏うことになると思うだけに、我々にも覚悟が必要。

『微風』で行こう! 変に惑わされたりしない。藤井風自身だけを見つめて行く。それだけでいい。そうありたいと願って、余計な文を書いた。

 

みんな、ハッピーな1日を!